……ここは、何処だろう。 |
私は、ここで何をしているんだろう? |
カーテンの閉められた、薄暗い部屋。 |
目の前に、全身が映るくらいの大きな鏡がある。 |
ああ、この場所知ってる。確か、獏良くんの部屋だ。 |
鏡に映る私は膝を付き、力無く『彼』に体を預けていた。 |
獏良くんの『もう1つの人格』に―。 |
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杏子はもうろうとしている意識の中、懸命にこの状況を把握しようとした。 |
「獏良……くん?私はなんで……ここに居るの?」 |
やっと、バクラの体から離れるものの、力が入らない。 |
バクラの口元がかすかに笑っているのが見える。 |
「覚えてるはずがねえよ。オレが今、その記憶を消したんだからな。」 |
「?」 |
その言葉の意味が分からない。 |
今の杏子には、言葉を理解する思考能力さえ無かった。 |
そんな杏子に構わず、バクラは言う。 |
「さて、次はどの『記憶』を消してやろうか?」 |
しばらくの、間。 |
杏子は今、自分が置かれている状況が分からず、戸惑う。 |
そしてただ、バクラの次の言葉を待つしか無かった。 |
「そうだ、あんたの『一番大切な奴の名』を言ってみろよ。」 |
杏子は何故、今そんな事を言わなければならないのか、と思いつつも |
もうろうとする思考の中、その答えが思い浮かんだ。 |
(私の大切な人…そんなの、決まってるじゃない……。) |
そう思って、その人の名を口にしようとした瞬間。 |
バクラは強引に杏子の顎を手で掴んだ。 |
そして、まるでその言葉を阻止するかのように、唇を重ね、塞ぐ。 |
「んっ!?」 |
声が、出ない。 |
口付けの間、杏子の記憶の中からだんだんと、何かが消えていく。 |
さっきまで口にしようとしていた『大切な人の名前』。 |
それが、だんだんと杏子の中から薄れ、消えて行く。 |
それはまるで、『口付けによって記憶を吸い取られている』様だった。 |
(………いや…………。) |
杏子の目に、僅かに涙が浮かぶ。 |
バクラは杏子を口付けから解放すると、その余韻を楽しむかのように |
自分の唇を舐めた。 |
「さあ、言ってみろよ、杏子。あんたの一番大切な奴の名を、な。」 |
楽しそうに言うバクラ。 |
「あ………。」 |
(私は、今まで誰を大切に思って来た?今まで、誰とずっと一緒に居たの…?) |
さっきまで自分の中にあった『大切な何か』が |
自分の中からスッポリ消えてなくなってしまった様だった。 |
「分から………ない………。」 |
杏子の口からは、その言葉しか出なかった。 |
ニヤっと笑うバクラ。 |
「バクラくん……何故、こんな事を…?」 |
自分自身に戸惑いつつも、杏子は目の前にいるバクラに問いかける。 |
「杏子を手に入れる為の入手法だ。 |
全ての記憶を消し、奪ってしまえばあんたはオレに身を委ねるしかないだろう?」 |
その言葉を聞いて、杏子はこの状況が、バクラによるものだという事だけが理解出来た。 |
そして、少しだけ自分自身の意識を取り戻した。 |
「私は決してあなたに身を委ねたりはしないわ…。 |
例え全てを奪われようと、私が、私である限り!」 |
「なら、その『自分』さえもなくしたらどうなるかな……?」 |
「!!」 |
杏子は、その言葉に今までにない恐怖を感じた。 |
「ヒャハハハ、こいつは見物だぜ?」 |
杏子は懸命にバクラから身を引こうとする。 |
立ち上がろうとするが力が入らずまた、ガクっと膝を付いた。 |
震えている杏子の顔に、そっと顔を触れるバクラ。 |
「すぐに済む……と言いたい所だが、今までで一番、時間がかかるかも知れねえな。 |
ま、長い方が楽しいだろ?」 |
そう言ってバクラは片方の手で杏子の頭を後ろから押さえ、 |
再び深く、唇を重ねた。 |
「………………!」 |
それは、さっきまでのとは違う、深いもので。 |
杏子はまるで、自分自身の全てを吸い取られてしまうかのような気さえした。 |
そんなバクラから逃れようとして、杏子は僅かに目を開けた。 |
しかし、杏子の目に映ったバクラの瞳。 |
そして、自分に覆いかぶさるように垂れた、長く、紫色の髪。 |
それはこんな状況の杏子にでも、綺麗だと思わせる程のものだった。 |
思わず見とれたくなるような錯覚さえ覚える。 |
しかし。 |
こうしている間にも、杏子の中から再び、大切な記憶(もの)が奪われようとしていた。 |
「…………う……。」 |
息苦しさから、杏子の口から声が漏れる。 |
そして、やっとバクラは唇を離した。 |
しかし杏子は息を切らし、焦点がなかなか合わない。 |
それは息苦しさだけではない。 |
「さあ、あんた誰だ?自分の名前を言ってみな!」 |
やっとの思いで杏子は、そう問いかけるバクラに焦点を合わす。 |
「私……は…………」 |
―自分が、『誰』だか分からない。 |
自分の名前すら、出て来ない。 |
「私は……誰!?分からない……………!!」 |
目の前に居るのは、『バクラくん』。それは分かるのに。 |
自分が誰で、何でここに居るのか、分からない。 |
全て、自分の中から消えてしまった。 |
「いやあっ…!!」 |
杏子は立ち上がると、目の前にあった大きな鏡を見て、さらに愕然とする。 |
鏡には、背後から杏子の様子を面白そうに見ているバクラが映っている。 |
だが、自分自身の姿が鏡に映っていないのである。 |
「いやっ!!なんで…!?」 |
ほとんど、パニック状態の杏子だった。 |
背後でバクラが、笑いを浮かべながら言う。 |
「簡単な事だぜ?あんたの中から『自分』という名の記憶を奪ったんだからな。 |
だから、あんたの目には自分自身は映らないし、見える訳がない。」 |
バクラは背後からゆっくりと、呆然と立ち尽くしている杏子に近付く。 |
ほとんど放心状態のまま、鏡を見つめる杏子。 |
そして、バクラが杏子に触れられる位置まで近付いたその時。 |
ガクっ! |
杏子の体から力が一気に抜け、糸の切れた操り人形の様に |
その場に崩れ落ちようとした。 |
バクラは背後からその杏子の体を抱き支えた。 |
杏子は完全に意識を失っていた。 |
「だから言っただろ?オレに身を委ねるしかない、と―。」 |
バクラは片方の腕で杏子の体を支えつつ、もう片方の手で杏子の頬に触れた。 |
そして、目の前の鏡に視線を向ける。 |
「まあ、今回はこのくらいにしてやるよ。」 |
鏡には、力なくバクラの腕にもたれかかり、眠っている杏子と、 |
不敵な笑いを浮かべるバクラの姿が映っている。 |
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END |
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バクラに『口付けによって記憶を吸い取る能力』があったら…というドリームを見ながら書いた小説。杏子に何回キスしたんだ、バクラよ…。ちなみに次に目を覚ました時、杏子の記憶は戻ってます。 |